「2011年4月10日、仕事から帰って友人と合流、高円寺に着くと、お祭り騒ぎのような音が聞こえた。
駅を降りるとちょうど反原発デモが高円寺駅前に終着したところであった。さっそくシャッターを切る。
このデモに対しては賛否両論あった。目撃者としての立場からであるが、私は肯定的に見ている。確かにお祭り騒ぎ、酒を飲んでいるものもあれば、踊り狂っているひともいた。
しかし人数が1万人以上も集まり、志を全く同じくしてのデモなんて本来あり得ないと思うし、いろんな細かい相違が混じったデモでよかったのだと思う。
大事なことはデモという行為にいたったひとびとが少なくとも原発に対してなんらかの思いを自覚したことである。
本当にいろんなひとがいて、コスプレをしていたり、音楽に合わせて踊っていたり、鳴りものがあったり、それはあたかも赤塚不二夫の漫画の世界のようだった。
世界は本来そういう姿をしているはずだ。
今回のデモのように目立った行動をすると、こそこそ文句だけ言うひともいるが、そのひとたちは、世界を見てみぬふりをしたいのではないだろうか。
私はその日仕事がなかったらデモに参加したかというと、参加しなかっただろう。でもどちらにせよ見に行っていたと思う。参加する、しないだけが原発に対する意見表明ではない。
しっかり目撃し、「デモがあってもいいんじゃない?」と確認することもひとつの段階である。
私はデモで大人数がお祭り騒ぎすることよりも、多数の投票で石原都知事が再選されるほうが、恐ろしい事態だと思っている。
デモを見たあと、友人たちと飲みに行った。いつもより私たちは興奮していつもよりお酒を飲んだ。
飲み屋さんはどこもデモ後に流れてきたひとびとでいっぱいだった。さながら何かのフェスが終わったあとのように。
そんなところに疑問を抱くひとも多いかもしれない。しかし私はこの時代のこの空気のなかで、それは自然な流れのように思えた。
誰もが得体の知れない不安を抱え、明日何が起こるかわからない状況で、ひとつの行動を起こした。
ネットなど意思表明するありとあらゆるツールを獲得した現代のひとびとが、デモという手段を選んだ。それを頭ごなしに否定する前に、この事実をよく見ることが大切である。
細分化されたコミュニティーの中だけで、ねちねち文句を言い合う大人にはなりたくない。
原発反対デモを擁護するしないだけが価値基準ではないけれど、そういう事実に直面したときに、目をそらしたり、色目で見たりすることがないような態度を保ちたい。
地震以後私たちの感覚は今まで以上に非常に敏感になり、傷つきやすくなっている。
そんな状況で、正しい判断をするのは難しいことだけれど、そんなときだからこそ、判断を間違ってはいけないという、過酷な状況が続く。
地震以前の私たちにはもう戻れない。だけど現実を引き受けて生きていくしかない。
今、目の前にあること、それを精一杯生きていくだけだ。」























